タイトル:個の尊厳
探究領域:自主自律
セントラルアイディア: 私たちは私たちのために生きている
私たちは「個」の尊厳を限られた「生」のなかでいかに発揮するか。それは私たちにとって避けることのできない「死」とどうつながるのか。「死」をいやなこと、こわいこととだけ見ずに、逆に、生きるのがつらいから「死」に逃げるというふうに考えずに、あえてタブー視されがちな「死」について直接切り込んで、「生」の意味を考えます。「死」を鏡として人が「生」きることの「意味」を考える探究が始まりました。
最初は、ストレートに、子どもたちが「死」について抱いているイメージを探るところから始めます。
「心臓がとまって、呼吸ができなくて、脳も動いていないこと」
まっさきに機能的な「死」についてのイメージが飛び出しました。食べることもできなくなり、消化・排泄もせず、もちろん成長もしない。動かない。ただの物体となってしまう……
「いまいるところから消えちゃう」
「いなくなる」
今、ここで生きている実感がある世界から消えてしまうというイメージが続いて出てきました。
「自分が死んだら今ここにいる人と会えなくなるし、誰かが死んでもその人と今ここで会えなくなる。だから残酷で、悲しいと思うの。」
死とはこの世から消滅すること……この意見はすぐに裏腹の考えへと発展してゆきました。
「別の世界に行くことなんじゃないかな。だから新たな旅立ちかも」
あの世があると考える……いや考えたいのかもしれませんね。あの世に行くのは魂。残された死体はもはや抜け殻。幽霊というのはこの世に浮遊する魂がたまたま生きている人に感じられてしまったもの。
上橋奈穂子さんの『精霊の守り人』がヒットしていて、子どもたちもテレビドラマで見ていたりもします。魂の存在を信じている子が目立ちます。
しかし、6年生ともなれば、クールな意見を述べる子も現われます。
「幽霊も魂もないよ。それはすべて人間が自分の意識の中でつくりあげたものだよ。死にたくない、死ぬのが恐いと思う人がつくりあげた幻想だよ」
なるほど。物質の働きによって命は制御されていて、意識もその一部。物質の作用によって生じた意識が「霊」という現象をつくりだしているに過ぎない。よって、死はひとつの物質の運動が終わったことを意味するというわけですな。
模造紙が一枚いっぱいになったので、この議論をふまえて視点を変える投げかけをします。
「みんなが死について抱いているイメージはわかったけど、次は、不死身ではなく死ぬようにプログラムされていることについてどう思うかな。生まれた瞬間から死への行進が始まっているわけだけれど、死ぬとわかっている中で人が生きる意味ってある?」
ど真ん中のストレートとなる問いを投げかけます。すると……
「自分が楽しみたいからじゃないかな」
素直な気持ちを子どもは語ります。それを受けてさらに掘り下げます。
「じゃあ、楽しいと思えない『生』ならば生きる価値はない?早く死んだ方がいいってこと?」
「病気で苦しくてもう命が長くないし、意識もなくなったとき、安楽死させることがあるでしょ」
おお、この段階で安楽死が出てきましたか。じゃあ乗りましょう。
「安楽死か。なるほど。今、安楽死とは言わずに尊厳死という言い方をしているのを知っているかな。まさに今回のテーマタイトルに含まれている言葉なんだけど」
尊厳とは、その人がその人らしく生きられる権利。しかし、それがかなわないとき、自ら生に区切りをつけることができるか否か。自然の摂理として、偶然生まれ、偶然死ぬ流れに、人の意志を割り込ませてよいのか……のっけから大変な議論になってきました。幼稚園からでも哲学する思考はあります。小学生には難しいとか無理とかいうのは大人の思い上がりもはなはだしい。むしろ大人の方が世間の垢にまみれて、純粋に哲学的に考えようとしないのではないでしょうか。そんなこと考えて何の意味があるの……どうせ答えは出ないし……なんてうそぶくのはたいてい大人です。しかし、成長の道筋の中で、子どもはなぜ生まれ、生き、死ぬのか。それが自分にどんな意味があるのか。知りたくて、知りたくてたまらないのです。
「生まれるのは選べないけど、死ぬのは選べるのじゃないかな」
「神様みたいな存在からもらった命だから生まれるのも死ぬのも任せるべきだと思う」
「だって死んだも同然のように見えても、殺さないでって思ってるかもしれないよ」
「自殺する人を認めてしまうことになるんじゃない」
「苦しんでいたり、動けなかったりするんだったら楽にしてあげたいと思うよ」
白熱した話し合いになってきました。もちろん、尊厳死について白黒つけられるわけがありません。また今はこの話し合いに決着をつけることが目的ではありません。人間の生死、そして人生には「偶然」という要素と「意志」という要素がからみあっていることが安楽死・尊厳死を通じて浮かびあがってきたことこそ見えてきたところが重要なポイントです。
私たちは親を選べず、時代を選べず、「偶然」に生を受けました。そして、いつ病に倒れるか死ぬかもわからず、どんな境遇に出会うかも知らず、「偶然」の流れに身を委ねています。一方で、遺伝子の研究や診断技術なども進み、病や寿命、能力の予測ができるようになってきました。人間の「意志」で知ることができる範囲が以前よりは広がってきているのは間違いありません。とはいえ「偶然」をコントロールするには程遠いでしょう。
偶然に支配されつつ、私たちはどう意志を持って生きるのか……今回のテーマでの重要なトピックがあらわになりました。
死を鏡として尊厳ある生を追究する学び、早くもフルスロットル状態です。
RI
※TCS2016年度探究テーマ一覧は、こちらよりご覧ください。
探究領域:自主自律
セントラルアイディア: 私たちは私たちのために生きている
[5・6年生]
「個の尊厳」とはなんとも大仰なテーマタイトル。これを小学生にやるの?できるの?どんなふうにするの?と思われるのではないでしょうか。私たちは「個」の尊厳を限られた「生」のなかでいかに発揮するか。それは私たちにとって避けることのできない「死」とどうつながるのか。「死」をいやなこと、こわいこととだけ見ずに、逆に、生きるのがつらいから「死」に逃げるというふうに考えずに、あえてタブー視されがちな「死」について直接切り込んで、「生」の意味を考えます。「死」を鏡として人が「生」きることの「意味」を考える探究が始まりました。
最初は、ストレートに、子どもたちが「死」について抱いているイメージを探るところから始めます。
「心臓がとまって、呼吸ができなくて、脳も動いていないこと」
まっさきに機能的な「死」についてのイメージが飛び出しました。食べることもできなくなり、消化・排泄もせず、もちろん成長もしない。動かない。ただの物体となってしまう……
「いまいるところから消えちゃう」
「いなくなる」
今、ここで生きている実感がある世界から消えてしまうというイメージが続いて出てきました。
「自分が死んだら今ここにいる人と会えなくなるし、誰かが死んでもその人と今ここで会えなくなる。だから残酷で、悲しいと思うの。」
死とはこの世から消滅すること……この意見はすぐに裏腹の考えへと発展してゆきました。
「別の世界に行くことなんじゃないかな。だから新たな旅立ちかも」
あの世があると考える……いや考えたいのかもしれませんね。あの世に行くのは魂。残された死体はもはや抜け殻。幽霊というのはこの世に浮遊する魂がたまたま生きている人に感じられてしまったもの。
上橋奈穂子さんの『精霊の守り人』がヒットしていて、子どもたちもテレビドラマで見ていたりもします。魂の存在を信じている子が目立ちます。
しかし、6年生ともなれば、クールな意見を述べる子も現われます。
「幽霊も魂もないよ。それはすべて人間が自分の意識の中でつくりあげたものだよ。死にたくない、死ぬのが恐いと思う人がつくりあげた幻想だよ」
なるほど。物質の働きによって命は制御されていて、意識もその一部。物質の作用によって生じた意識が「霊」という現象をつくりだしているに過ぎない。よって、死はひとつの物質の運動が終わったことを意味するというわけですな。
模造紙が一枚いっぱいになったので、この議論をふまえて視点を変える投げかけをします。
「みんなが死について抱いているイメージはわかったけど、次は、不死身ではなく死ぬようにプログラムされていることについてどう思うかな。生まれた瞬間から死への行進が始まっているわけだけれど、死ぬとわかっている中で人が生きる意味ってある?」
ど真ん中のストレートとなる問いを投げかけます。すると……
「自分が楽しみたいからじゃないかな」
素直な気持ちを子どもは語ります。それを受けてさらに掘り下げます。
「じゃあ、楽しいと思えない『生』ならば生きる価値はない?早く死んだ方がいいってこと?」
「病気で苦しくてもう命が長くないし、意識もなくなったとき、安楽死させることがあるでしょ」
おお、この段階で安楽死が出てきましたか。じゃあ乗りましょう。
「安楽死か。なるほど。今、安楽死とは言わずに尊厳死という言い方をしているのを知っているかな。まさに今回のテーマタイトルに含まれている言葉なんだけど」
尊厳とは、その人がその人らしく生きられる権利。しかし、それがかなわないとき、自ら生に区切りをつけることができるか否か。自然の摂理として、偶然生まれ、偶然死ぬ流れに、人の意志を割り込ませてよいのか……のっけから大変な議論になってきました。幼稚園からでも哲学する思考はあります。小学生には難しいとか無理とかいうのは大人の思い上がりもはなはだしい。むしろ大人の方が世間の垢にまみれて、純粋に哲学的に考えようとしないのではないでしょうか。そんなこと考えて何の意味があるの……どうせ答えは出ないし……なんてうそぶくのはたいてい大人です。しかし、成長の道筋の中で、子どもはなぜ生まれ、生き、死ぬのか。それが自分にどんな意味があるのか。知りたくて、知りたくてたまらないのです。
「生まれるのは選べないけど、死ぬのは選べるのじゃないかな」
「神様みたいな存在からもらった命だから生まれるのも死ぬのも任せるべきだと思う」
「だって死んだも同然のように見えても、殺さないでって思ってるかもしれないよ」
「自殺する人を認めてしまうことになるんじゃない」
「苦しんでいたり、動けなかったりするんだったら楽にしてあげたいと思うよ」
白熱した話し合いになってきました。もちろん、尊厳死について白黒つけられるわけがありません。また今はこの話し合いに決着をつけることが目的ではありません。人間の生死、そして人生には「偶然」という要素と「意志」という要素がからみあっていることが安楽死・尊厳死を通じて浮かびあがってきたことこそ見えてきたところが重要なポイントです。
私たちは親を選べず、時代を選べず、「偶然」に生を受けました。そして、いつ病に倒れるか死ぬかもわからず、どんな境遇に出会うかも知らず、「偶然」の流れに身を委ねています。一方で、遺伝子の研究や診断技術なども進み、病や寿命、能力の予測ができるようになってきました。人間の「意志」で知ることができる範囲が以前よりは広がってきているのは間違いありません。とはいえ「偶然」をコントロールするには程遠いでしょう。
偶然に支配されつつ、私たちはどう意志を持って生きるのか……今回のテーマでの重要なトピックがあらわになりました。
死を鏡として尊厳ある生を追究する学び、早くもフルスロットル状態です。
RI
※TCS2016年度探究テーマ一覧は、こちらよりご覧ください。