タイトル: 信じるカネ?
探究領域: 社会寄与
セントラルアイディア:価値の移転は信頼によって成り立つ。
「大事なのはさあ、お金自体じゃないってことなんだよ」
「そうそう、お金を使う人どうしの間に信頼がないとお金に信用があっても意味ないもんね」
もし人どうしの「信頼」がない状態で「信用」ある「お金」が使われたらどうなるか?
ということについて考えてみました。
「信頼」がないということは「だましあい」が横行しているということ。相手が自分に偽物や欠陥品を売りつけてくるかもしれない。反対に、自分が相手をだましてうまく相手の品物を巻き上げようとするかもしれない。そうなると、いちいちチェックしなければならないから、取引に時間がかかるし、とっても面倒。もっと生産的なことに時間を使いたいのに、だまされないためにいちいち気を遣わないといけない。いつも疑いの気持ちを持って生きる……ああ、なんて殺伐とした世の中なのでしょう。
もっと身近な例で考えてみると……
ICカードの中にチャージしてあるお金で勝手に買い食いしたり、おもちゃや本を買ってしまったら……
これは、誰しも思い当たる節(というか、実際にやってしまったことがある……)事例です。非常時のためにチャージされたお金を、欲望に任せて勝手に使ってしまうということは、いったいどんな「信頼」を壊していることになるのか……改めて子どもたちに問うてみます。隠れてこそこそこういう行為を働くということは罪悪感があるから。しかし、同時に、大したことないじゃんという「軽い気持ち」も働いています。
「家族でお金をどう使うか計画しないととんでもないことになるかも」
ある子が口火を切ります。決まった額のお金は、毎日の食べ物だったり、家賃だったり、お医者さんにかかる費用だったり、いざというときの貯金だったり、「計画」に基づいて使われています。しかし、その「計画」を無視して、自分の欲望のみにしたがって使ったらどうなるか……。安定した暮らしができなくなってしまいます。「たかが100円」だったとしても、その100円が失われたところで特に困ったことがなかったとしても、そういう無責任なお金の使い方をする人が「仲間」にいるとなると、「信頼」してお金を託せなくなる。目の前のお金への「自制心」が働くかどうかは、安定して取引が行われるためには不可欠な要素なのです。
バスの運転手さんが料金箱のお金をちょこっと盗んだら……集金のお金の一部をちょろまかしたら……コンビニのレジのお金をわからない額だけとったら……
大がかりな万引きや窃盗、あるいは悪どい強盗ではなくても、むしろ、そうではなくて、普段は「いい人」の仮面を被っているから余計始末がまるいのです。
では、どうやって「信頼」は構築できるのか……
これは口にすると簡単です。
うそをつかないで、責任感を持って、誠実にふるまう
ことです。そんなことはわかっているのです。しかし、これができない。そのうえ、いつもできないならまだ事は簡単かもしれません。普段は結構できているのですが、ちょっとしたことをきっかけに、つまらないことでうそをつき、無責任に、衝動に任せた行動をしてしまうのです。
ちょっかいだされて乗っちゃった……
なんとなくごまかした方がいいなと思った……
面倒だし、やらなくても大したことなさそうだから……
これらの「ちょっとした心の隙」が「信頼」を構築するために不可欠な「責任感あるふるまい」をぶちこわしてしまうのです。
「我慢できないんだよな……」
まったくその通り。「我慢」というより「自制心」と呼んだほうがよいかもしれません。「我慢」にはどうしても「無理して行う」という感じが伴ってしまいますが、「自制心」は「身体がそうしてしまう」という状態になっている感じがします。「無意識の衝動」に対して「無意識のコントロール」が働く状態。それが「自制心」があるということです。では、いったいどうすれば「自制心」は身につくのでしょう。今年もスクールで数々のいざこざやトラブルが起きていますが、なんとなく話し合って、ごめんなさい、もうしませんって謝って、とりあえずその場は収まって、でも、ほとぼりのさめないうちに同じ過ちを繰り返しているのです。
「向上心」と「自制心」はセットになっている。つまりどうして間違えたかをしっかり見つめ、間違いを繰り返す自分をどうしようもないなと思い、そんなダメな自分を認識しつつ、なんとかこんなオレでもなんとかならないだろうか、という後ろめたさの感情を持てないだろうか。そのために一人ではなく、みんなで支え合っていけないだろうか。
「とりあえず、起きたことを『他人のせい』にすることからの脱却だよね。反射的におれこれでよかったのかなと思える。そして、ああだからオレはダメだでネガティヴモードに陥ってしまうのではなく、変わるために挑戦しようとする。そのための工夫をする。そんなことができないだろうか」
「お金」の話などどこかに飛んでしまったかのような展開になりました。しかし、世の中に満ちている国家や企業の不祥事は、「お金」にばかり目が眩んで、「お金」のやりとりの根本にある物やサービスの価値を無視し、「信頼関係」などないがしろにして、自己の利益、それも帳簿上の数字を追ってしまった果てに起こっています。マネーゲームの心理とテロを生み出してしまうような社会の矛盾は同じ地平にある。大人が相変わらず「自制心」を働かせられない世の中で、子どもに「自制心」を求める。そんななんとも深いテーマが「信じるカネ?」の底流にあるとつくづく感じた1週間でありました。
RI
※TCS2015年度探究テーマ一覧は、こちらよりご覧ください。
探究領域: 社会寄与
セントラルアイディア:価値の移転は信頼によって成り立つ。
[3・4年生]
「お金」について知れば知るほど、だんだんと「お金」の影が薄くなってゆくことを子どもたちは感じとり始めました。「大事なのはさあ、お金自体じゃないってことなんだよ」
「そうそう、お金を使う人どうしの間に信頼がないとお金に信用があっても意味ないもんね」
もし人どうしの「信頼」がない状態で「信用」ある「お金」が使われたらどうなるか?
ということについて考えてみました。
「信頼」がないということは「だましあい」が横行しているということ。相手が自分に偽物や欠陥品を売りつけてくるかもしれない。反対に、自分が相手をだましてうまく相手の品物を巻き上げようとするかもしれない。そうなると、いちいちチェックしなければならないから、取引に時間がかかるし、とっても面倒。もっと生産的なことに時間を使いたいのに、だまされないためにいちいち気を遣わないといけない。いつも疑いの気持ちを持って生きる……ああ、なんて殺伐とした世の中なのでしょう。
もっと身近な例で考えてみると……
ICカードの中にチャージしてあるお金で勝手に買い食いしたり、おもちゃや本を買ってしまったら……
これは、誰しも思い当たる節(というか、実際にやってしまったことがある……)事例です。非常時のためにチャージされたお金を、欲望に任せて勝手に使ってしまうということは、いったいどんな「信頼」を壊していることになるのか……改めて子どもたちに問うてみます。隠れてこそこそこういう行為を働くということは罪悪感があるから。しかし、同時に、大したことないじゃんという「軽い気持ち」も働いています。
「家族でお金をどう使うか計画しないととんでもないことになるかも」
ある子が口火を切ります。決まった額のお金は、毎日の食べ物だったり、家賃だったり、お医者さんにかかる費用だったり、いざというときの貯金だったり、「計画」に基づいて使われています。しかし、その「計画」を無視して、自分の欲望のみにしたがって使ったらどうなるか……。安定した暮らしができなくなってしまいます。「たかが100円」だったとしても、その100円が失われたところで特に困ったことがなかったとしても、そういう無責任なお金の使い方をする人が「仲間」にいるとなると、「信頼」してお金を託せなくなる。目の前のお金への「自制心」が働くかどうかは、安定して取引が行われるためには不可欠な要素なのです。
バスの運転手さんが料金箱のお金をちょこっと盗んだら……集金のお金の一部をちょろまかしたら……コンビニのレジのお金をわからない額だけとったら……
大がかりな万引きや窃盗、あるいは悪どい強盗ではなくても、むしろ、そうではなくて、普段は「いい人」の仮面を被っているから余計始末がまるいのです。
では、どうやって「信頼」は構築できるのか……
これは口にすると簡単です。
うそをつかないで、責任感を持って、誠実にふるまう
ことです。そんなことはわかっているのです。しかし、これができない。そのうえ、いつもできないならまだ事は簡単かもしれません。普段は結構できているのですが、ちょっとしたことをきっかけに、つまらないことでうそをつき、無責任に、衝動に任せた行動をしてしまうのです。
ちょっかいだされて乗っちゃった……
なんとなくごまかした方がいいなと思った……
面倒だし、やらなくても大したことなさそうだから……
これらの「ちょっとした心の隙」が「信頼」を構築するために不可欠な「責任感あるふるまい」をぶちこわしてしまうのです。
「我慢できないんだよな……」
まったくその通り。「我慢」というより「自制心」と呼んだほうがよいかもしれません。「我慢」にはどうしても「無理して行う」という感じが伴ってしまいますが、「自制心」は「身体がそうしてしまう」という状態になっている感じがします。「無意識の衝動」に対して「無意識のコントロール」が働く状態。それが「自制心」があるということです。では、いったいどうすれば「自制心」は身につくのでしょう。今年もスクールで数々のいざこざやトラブルが起きていますが、なんとなく話し合って、ごめんなさい、もうしませんって謝って、とりあえずその場は収まって、でも、ほとぼりのさめないうちに同じ過ちを繰り返しているのです。
「向上心」と「自制心」はセットになっている。つまりどうして間違えたかをしっかり見つめ、間違いを繰り返す自分をどうしようもないなと思い、そんなダメな自分を認識しつつ、なんとかこんなオレでもなんとかならないだろうか、という後ろめたさの感情を持てないだろうか。そのために一人ではなく、みんなで支え合っていけないだろうか。
「とりあえず、起きたことを『他人のせい』にすることからの脱却だよね。反射的におれこれでよかったのかなと思える。そして、ああだからオレはダメだでネガティヴモードに陥ってしまうのではなく、変わるために挑戦しようとする。そのための工夫をする。そんなことができないだろうか」
「お金」の話などどこかに飛んでしまったかのような展開になりました。しかし、世の中に満ちている国家や企業の不祥事は、「お金」にばかり目が眩んで、「お金」のやりとりの根本にある物やサービスの価値を無視し、「信頼関係」などないがしろにして、自己の利益、それも帳簿上の数字を追ってしまった果てに起こっています。マネーゲームの心理とテロを生み出してしまうような社会の矛盾は同じ地平にある。大人が相変わらず「自制心」を働かせられない世の中で、子どもに「自制心」を求める。そんななんとも深いテーマが「信じるカネ?」の底流にあるとつくづく感じた1週間でありました。
RI
※TCS2015年度探究テーマ一覧は、こちらよりご覧ください。