タイトル:目からうろこ
探究領域:自主自律
セントラルアイディア:私たちはみな、違う世界が見えている。
「トリック」の一例として、明らかに上り坂に見えるすべり台なのに玉が上に向かって転がっていく動画を見せます。
「スゲ〜」
みんな身を乗り出して動画に見入ります。
「これね、本当は違うんだよな……」
みんなとっても面白い映像だということは認めてもなんらかのトリックがあると気づきます。種明かし映像を見て(うまくできてるなあ……)と感心しきり。
へっこんでいる穴が、写真を逆さまにしたらふくらんで見えたり、動いているわけがないのに、ぐるぐる回転して見えたり、黒と白だけなのに他の色が見えてきたり、不思議な図形は和知れずです。
実際にはないものを私たちの目は見てしまうようにできている。これは改めて考え直すと衝撃的でした。そりゃそうですよね。自分が見ているものがそうじゃない可能性があるっていうのでは、何を信じていいのかわからなくなってしまいます。
「いったい目のしくみってどうなってるんだろう?」
子どもの疑問ももっともです。そこで目の構造について調べてみました。
「目ん玉」「眼球」と呼ばれるように、目はボール状です。黒目のところがレンズ。そして「眼球」の内側には「網膜」という光を感じる細胞が敷き詰められている部分があります。ここが光を感じ、その情報が「視神経」によって集められ、脳へと送られるということがわかりました。
ヒトの「目」の「レンズ」も「虫眼鏡」の「レンズ」と構造は同じ。「レンズ」は光を集め別の部分に像を映し出す働きがあります。網膜に映し出された像が脳へというわけで……とここまで理解してくるとある男の子が突然、
「だから目は落ちないんだよな」
とつぶやく。彼の頭の中には脳に「神経」というヒモでつながっていて、どんなに揺れても眼窩から飛び出ない目のイメージが浮かんだのだろう。
「目が見てるんじゃなくて脳が見てるんじゃない」
「そうだよ、だから同じ大きさに見えないんだ」
見たままの像ではなく、脳が何らかの処理を加えて見え方が決まるのだという考えが浮かび上がってきました。
子どもたちが脳の働きに注目するようになるきっかけは、上の左図の錯視でした。みなさんにも上の玉の方が下のよりも大きく見えるでしょう。でも定規できちんと測ってみると同じなんです。
「脳がわざとそう見ようとしているんだよね」
ものの見え方を知るには、目の構造を調べるだけでは不十分で、脳の働きを知る必要があることを子どもたちは主張し始めました。
「脳に関係あるっていうことはさあ記憶も関係しているってことだよ」
おいおい、なんていうことを言い出すのだ。これはもはや認知科学の授業ではないか。とても小2のクラスとは思えなくなってきました。こうなってくるとただ自分の関心だけで「なんでそう思ったの?」と問いかけてしまいます。すると
「いやあだってさあ、何かが見えるっていうのは、その見たものの名前を知っているからでしょ。その名前を知らなければ、例えば『筆箱』っていう名前を記憶してなければ、答えられないじゃん」
現実を言葉で分節することをやめ、その実存的姿だけが浮かび上がってきたとき、嘔吐するような戸惑いを覚えたとサルトルが言ったことを彷彿させるような哲学的会話……と一人興奮してしまうおっちゃん。子どもとともに知識を掘り出しつつ構成してゆくことの醍醐味を味わうのでした。
外界の像ですら、私たちはどうも素直に受け取っていないらしい。では、私たちは「自分が見た」ってことに基づいて「判断」しているんだろうか。もし「見た」と思ったことが事実でなかったら、その「判断」はとんでもないものになるのではないか。さらに「脳」の自動的な働きが私たちの「見え方」に影響を及ぼしているとするなら、それを意識的にコントロールしないと誤った「判断」をしてしまう。いや、もっと心配なのは、意識的にコントロールできなかったら大変だ!……
そんな「疑問」というより「不安」が子どもたちの中に次々わきおこってきました。
私たちの見え方が判断にどんな影響を与えているのか?という「本質に迫る問い」の追究開始です。
RI
※TCS2014年度探究テーマ一覧は、こちらよりご覧ください。
探究領域:自主自律
セントラルアイディア:私たちはみな、違う世界が見えている。
[2年生]
東京だとお台場と高尾にトリックアートミュージアムがあります。そこに行ったことがある子もいるし、そうでなくても、どこかで「目の錯覚」というものがあるということも聞きかじったことがあるようでした。「トリック」の一例として、明らかに上り坂に見えるすべり台なのに玉が上に向かって転がっていく動画を見せます。
「スゲ〜」
みんな身を乗り出して動画に見入ります。
「これね、本当は違うんだよな……」
みんなとっても面白い映像だということは認めてもなんらかのトリックがあると気づきます。種明かし映像を見て(うまくできてるなあ……)と感心しきり。
へっこんでいる穴が、写真を逆さまにしたらふくらんで見えたり、動いているわけがないのに、ぐるぐる回転して見えたり、黒と白だけなのに他の色が見えてきたり、不思議な図形は和知れずです。
実際にはないものを私たちの目は見てしまうようにできている。これは改めて考え直すと衝撃的でした。そりゃそうですよね。自分が見ているものがそうじゃない可能性があるっていうのでは、何を信じていいのかわからなくなってしまいます。
「いったい目のしくみってどうなってるんだろう?」
子どもの疑問ももっともです。そこで目の構造について調べてみました。
「目ん玉」「眼球」と呼ばれるように、目はボール状です。黒目のところがレンズ。そして「眼球」の内側には「網膜」という光を感じる細胞が敷き詰められている部分があります。ここが光を感じ、その情報が「視神経」によって集められ、脳へと送られるということがわかりました。
ヒトの「目」の「レンズ」も「虫眼鏡」の「レンズ」と構造は同じ。「レンズ」は光を集め別の部分に像を映し出す働きがあります。網膜に映し出された像が脳へというわけで……とここまで理解してくるとある男の子が突然、
「だから目は落ちないんだよな」
とつぶやく。彼の頭の中には脳に「神経」というヒモでつながっていて、どんなに揺れても眼窩から飛び出ない目のイメージが浮かんだのだろう。
「目が見てるんじゃなくて脳が見てるんじゃない」
「そうだよ、だから同じ大きさに見えないんだ」
見たままの像ではなく、脳が何らかの処理を加えて見え方が決まるのだという考えが浮かび上がってきました。
子どもたちが脳の働きに注目するようになるきっかけは、上の左図の錯視でした。みなさんにも上の玉の方が下のよりも大きく見えるでしょう。でも定規できちんと測ってみると同じなんです。
「脳がわざとそう見ようとしているんだよね」
ものの見え方を知るには、目の構造を調べるだけでは不十分で、脳の働きを知る必要があることを子どもたちは主張し始めました。
「脳に関係あるっていうことはさあ記憶も関係しているってことだよ」
おいおい、なんていうことを言い出すのだ。これはもはや認知科学の授業ではないか。とても小2のクラスとは思えなくなってきました。こうなってくるとただ自分の関心だけで「なんでそう思ったの?」と問いかけてしまいます。すると
「いやあだってさあ、何かが見えるっていうのは、その見たものの名前を知っているからでしょ。その名前を知らなければ、例えば『筆箱』っていう名前を記憶してなければ、答えられないじゃん」
現実を言葉で分節することをやめ、その実存的姿だけが浮かび上がってきたとき、嘔吐するような戸惑いを覚えたとサルトルが言ったことを彷彿させるような哲学的会話……と一人興奮してしまうおっちゃん。子どもとともに知識を掘り出しつつ構成してゆくことの醍醐味を味わうのでした。
外界の像ですら、私たちはどうも素直に受け取っていないらしい。では、私たちは「自分が見た」ってことに基づいて「判断」しているんだろうか。もし「見た」と思ったことが事実でなかったら、その「判断」はとんでもないものになるのではないか。さらに「脳」の自動的な働きが私たちの「見え方」に影響を及ぼしているとするなら、それを意識的にコントロールしないと誤った「判断」をしてしまう。いや、もっと心配なのは、意識的にコントロールできなかったら大変だ!……
そんな「疑問」というより「不安」が子どもたちの中に次々わきおこってきました。
私たちの見え方が判断にどんな影響を与えているのか?という「本質に迫る問い」の追究開始です。
RI
※TCS2014年度探究テーマ一覧は、こちらよりご覧ください。