【探究領域】時空因縁
【セントラルアイディア】我が街の歴史は絶えずして、しかももとの街にあらず。
<テーマ学習> レポート
いよいよ「東京発見伝」が始まりました。このテーマ学習では私たちが暮らしているこの東京の街をフィールドに、今の東京とそこから見える歴史の痕跡を探す旅に出かけます。
首都という言葉は知っているけど、この東京の街が持つ特徴ってなんだろう?そもそも首都ってどんな機能を持つ街なんだろう?
いつも見ている今の東京について新たな視点で見ていくことで他の街にはないものが見つかることでしょう。さらに、今の街に残されている歴史の手がかり=痕跡を見つけ、目に見えるものから目に見えない歴史の探究へと好奇心を伸ばしていきます。
フィールドワーク第一回目は東京の中心である東京駅から皇居周辺、そして首都機能が集中する霞ヶ関と永田町を探索しました。
「首都東京の今と昔の手がかりをたくさん見つけるぞ〜!」とミッションをみんなで共有し、いざ出発です。学びのアンテナをぐるぐるさせてどんな発見が待っているでしょうか!?
ミッションの視点を持って降り立つと、初めてではない東京駅も今までと違って見えてくるのがフイールドワークの面白いところ。移動するために使う東京駅にもいくつもの発見がありました!
「東京駅ってかっこいいねー!左右対称になってるじゃん!!明治の頃にできたんだってー。」
「立て直しもしているみたいだけど、やっぱり昔からの建物を大事にして再現しているって書かれているよ。」
「天井もかっこいいね。この奥は綺麗なホテルなんだ〜!知らなかったー。」
丸の内南口の改札を出るとフィールドワーカーたちの目がきらりと輝きます。
「この郵便ポスト絶対昔の手がかりだよ!郵便って漢字も右から書かれているね。ラーメン丼みたいな模様はなんであるんだろう???」
丸の内のオフィス街を歩きながら皇居に向かう道すがら、平将門の首塚に立ち寄りました。さまざまな企業の本社ビルが立ち並ぶ大手町一丁目の一等地にある「将門塚」。
桓武天皇の地を引く平家の平将門は関東8ヶ国を占領した後、朝廷の命を受けた藤原氏に倒されました。その後、将門の首は京都から関東に飛び立ったとされています。
京都で晒し首になった将門の首はその三日後、白い光を放って関東まで飛んできたという話を知った子どもたちは早速大興奮。
「背中を向けたら呪われるんでしょ〜!オレは背中向けられるよ!」と強がる一部の男子たちと「祟りが起きるよ。それだけはやめなよ!!」と止めるキッズたち。
将門公に土下座をするキッズも現れました。我々がお参りしている間にも何組もの会社員の方たちがお参りにきていて、令和の世になっても大切にされている首塚の存在を実感しました。サラリーマンの人たちも土下座してお参りするキッズを見て吹き出していました。私はちょっぴり恥ずかしかったです。
将門塚から少し足を伸ばすと目の前にお濠が広がっています。お濠と石垣を眺めながらどうやって車や機械がない江戸時代にこの岩を運んで積み上げたのか、なんて話に妄想を膨らませながらのんびり眺める時間もまた豊かな時間です。
「あの石垣に刻印がしてあるって昨年の東京発見伝のプレゼンでアミが語ってたよね!」と先輩のプレゼンと目の前の石垣が繋がるキッズたち。
正門である大手門から東御苑に入ろうとしたところ、なんと金曜日は閉園日でした。。。私のリサーチ不足です。。。ごめんよみんな。
しかしこの日は切り替えてじっくりと皇居周辺と永田町・霞ヶ関を歩き回ることに決定。皇居周辺だけでも5kmを超える道のりです。皇居内はまた次回にリベンジです!
石垣を眺めていると不思議な穴を発見。
「あれは忍者がこっそり出入りしてた穴なんじゃない!?」
「江戸城の下水かもしれないよー。」
「いやー、それはないでしょ〜!水そんなに汚くないじゃん(笑)」
続いては桜田門に到着です。
井伊直弼が暗殺されたことをみんなで想像しているとミニ劇場が始まりました☆
「あ!裁判所だ!!逃げろ〜〜〜!」と大はしゃぎのキッズたち。
現地に来ないと感じられないものがそこにはあります。
「全然コンビニないんだねー。普通のお店とか全然ない。」
確かにこんな街は広い日本でも二つとありません。
みんな食べたいメニューを選べるのでテンションMAXです。
お腹も満たされたのでフィールドワーク再開です。
坂を上がると見たことがある建物が!!
「あ!国会議事堂!!!!!」
そして向かいには内閣総理大臣官邸があります。内閣総理大臣官邸の近くに足を運んでみるとたくさんの警察官が警護をしていました。
「すみませーん。何か事件でもあったんですか?」といきなり警察官に質問をするナイスなキッズ。
「いやいや、事件などが起こらないように警備をしているんだ。」
「そうですか!ありがとうございます!!」
「ここに岸田さんが住んでるんだねー。すごい建物だね!」
「税金で暮らしているのにすごい広さだなあ。てか広すぎ!!」
そんな話をしているところにハイヤーが到着し、警備員さんがゲートを開きました。
「あ!岸田さんだー!」
「本当だ〜!」
100%の自信はありませんがどうやら本物の岸田首相らしき方が右後部座席に乗っていた(?)気がします(笑)。
皇居を引き続き歩いていくと素敵な建物が見えてきました。
こちらは最高裁判所。スクールに戻ってからリサーチすることがどんどん集まってきました。この時期の皇居周りの散策は暑さもあってなかなかなハードさでもありましたが、まずは無事に歩き切ることができました。
みんなお疲れ様でした。
さあ、フィールドワークの後はスクールに戻って振り返りをして、さまざまな手がかりを辿っていきます。これぞフィールドワークの醍醐味。体験を面白かったで終わらせずにみんなで言語化することで発見から発見が生まれる連鎖を引き起こします!!
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初回のフィールドワークは私たちが暮らす「東京の中心」を探索すべく、東京駅周辺を一日中歩き回りました。知っているようで知らない私たちの都市東京。
東京っていつから東京なの?
首都って他の県と何が違うの?
そんな疑問も胸に抱きながら東京駅・丸の内・大手町といった経済の中心の機能が集まるエリアから霞ヶ関・永田町といった政治の中心を皇居の広いお堀の周辺を学びのアンテナを立ててじっくりと歩いた3年生たち。
今の東京とそこに残る歴史の手がかりをたくさん発見していきました。
そして次のフィールドワークは昔も今も庶民に人気の観光地である上野・谷中をターゲットに行いました。
その前に前回入ることができなかった皇居内にも足を伸ばし、こちらも一日かけてたくさんの不思議やワクワクを発見してきました◎
東京駅から皇居を目指していると皇居の周り以外にも石垣や濠があることを発見!前回以上に江戸の痕跡に敏感なキッズたちはとても心強い◎
「あ〜!今昔散歩(こんじゃくさんぽ)って書かれてるよ!」
フィールドワークでの発見・疑問やそれらを起点にリサーチしたことを”東京今昔物語”としてスライドにまとめ始めたキッズたち。街に溢れる情報にも感度よく反応してくれます。学びのアンテナがよく動いている証拠です。そして1人の発見が発見の連鎖を引き起こしていきます。こうなったら安心です。
丸の内という地名の由来は江戸城の内堀と外堀が関係していて、お堀で囲まれた内側という意味だったことに驚きと納得のキッズたち。前回のフィールドワークとリサーチによって前提の知識がある事でキッズたちの理解が深まっています。やはり机上の知識とは質が違うことをしみじみと実感します。
そして今回は正門である大手門からいざ東御苑にお邪魔します。
大手門を抜けるとすぐに百人番所があります。ここで侵入者が先に進むことがないように24時間体制で忍者の精鋭チームたちがしっかりと警護をしていたとのこと。
さらに百人番所から少し進むとここにも大番所があります。同じく精鋭チームが本丸に近づく侵入者から守っています。これほどまでの警備体制が敷かれていれば、誰も本丸に近づくことはできなかったことでしょう。さすがは江戸幕府です。そして伊賀と甲賀の忍者が警護に当たるというところにも徳川家と服部半蔵の繋がりなどが表れていて探究心をくすぐられます
皇居内に入ると目の前で石垣を見ることができます。
「あ!石垣の隙間には砂利が入ってるぞ!」
「しっかりと組まれているし、めちゃめちゃ重そうだ〜。」
みんなで力を合わせてもびくともしません。。。。。
そしてこちらが今はなき江戸城本丸。の模型。
高さ60m地上6階建てとはものすごい城ですね。さすが日本一の江戸城です。なんと50年の間に3回も火事で消失し、その度立て直したとのこと。
今はなき江戸城を想像しながら、今も残る石垣の土台を眺めました。
4回目の再建は見送られたことについて。日本史上最大の被害を出した(死者10万人以上)明暦の大火で城が焼失してから、リーダーの1人である保科正之が城の再建に時間と資金と労力を注ぐよりも庶民が安心して暮らせる街づくりを優先しよう、と提案したことで川幅の増幅や道幅を広げるなどの街づくりの復興事業を行うことにしたからとのこと。
それを知ってから見る天守台の石垣は、上にそびえる天守閣は無いものの、そこには愛あるリーダーの優しい心がありました。
今の日本のリーダーにも保科正之のような優しさを優先してもらいたいものです。(涙)
この日もめちゃめちゃ社交的なキッズたち。観光客の外国人にも「Hey dude! こんにちは!!」と気さくに話しかけまくっていました。さすがグローバルに通用するおばかパワーを備えたTCSキッズです。
そして午後は上野へ移動。この上野公園は江戸時代は壮大な寛永寺の境内でした。
今は規模が縮小された寛永寺。上野には何度も来ていますが寛永寺に足を運ぶのは初めて。江戸時代には庶民の憧れの人気スポットだった寛永寺ですが令和の世にはどれほどの人たちが訪れているのだろうか。
江戸に幕府を開いた後、徳川家は都市計画について天海上人に相談しました。
そうしたところ京都に都を移した際に鬼門(東北)の方角を防ぐために建立された比叡山延暦寺に着想を得て、江戸城の鬼門に当たる上野に東叡山寛永寺を建立することになりました。
寛永寺の最盛期には現在の上野公園全域の2倍の面積を有し、谷中エリアから日暮里に続く地域も寛永寺の境内だったことを思うとその規模に圧巻です。
寛永寺を後に、谷中の町を歩いてみると江戸時代から残る酒屋さんがありました。
古い井戸もありました。
江戸時代には酒屋さんで醤油や味噌に砂糖なども量り(計り)売りしていたとのこと。当時の珍しい木製のレジも見せてくれました。
谷中の商店街を歩いているとちょうどお腹が空いたところに江戸時代からある老舗のお煎餅屋さんが!!!(お煎餅も量り(計り)売り〜)
続いて谷中で有名な浄明院。こちらはもちろん寛永寺の小院です。地蔵信仰でなんとお地蔵さまの数は驚きの八万四千体です。
次に谷中霊園に移動してきました。まず目に飛び込んできたこの珍しいお墓はなんと勝海舟のもの。
みんなでこちらのお墓を眺めていると詳しいご老人が話しかけてきてくれました。
「こんにちは。これはね、勝海舟のお墓だよ。徳川慶喜の息子もこのお墓に入っているんだよ。勝家の婿養子になったからね。質問だけど慶喜には何人の子どもがいたでしょうか?」
「んーーー。4人!」
「正解はね、20人なんだよ。奥さんは3人いたんだ。」
「えーーー!!!すごすぎ!」
「そして9番目の息子がこの勝家の養子になったんだよ。」
フィールドワークをしているとふとこのような会うべくして会える現人と遭遇するものです。ありがたい!おもしろい!
こちらの奥に慶喜と正室のお妃さまのお墓があります。
この門越しに手を合わせます。このお墓は仏式ではなく天皇の御陵と同様に神式です。(by出会ったおじいさん)
そしてその徳川慶喜のお墓から直線上には渋沢栄一のお墓がありました。慶喜の家来だった渋沢栄一は死してもなお君主を見守っていたいという思いからこの位置にご自分のお墓を立てたそうです。(byおじいさま)
「渋沢栄一はあと1年2ヶ月後に一万円札になる人なんだよ。だからみんなも手を合わせた方がいいよ。」とおじいさま。
「おー!じゃあお参りしよう!」
「俺のところにたくさん来てくださいってお願いしたよー!」と子どもたち。
寛永寺(現谷中霊園)の敷地にはこの御三方以外にも多くの著名人のお墓がありました。
なぜ寛永寺に!?そしてなぜこの人たちが???と疑問が浮かび上がります。さあ、これらの疑問のリサーチや発見の深堀りはふりかえりの後で。
どうぞみなさまも上野寛永寺についてフィールドワークなさってみてはいかがでしょうか。東京の面白さがマシマシになること間違いなしです。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・
いよいよテーマ学習も大詰めを迎え、プレゼンテーションの日が迫ってきました。
これまでのフィールドワークで発見してきたことやリサーチしてきた疑問からいくつもの東京今昔物語が出来上がりました。
3年生となり、”目に見える”現代の東京から”目に見えない”歴史を探るという一段階難易度が上がった概念理解のテーマ学習に対して、子どもたちは止まることなくむしろどんどん主体的に探究していくことができました。
今の東京と歴史のつながりを結ぶ旅。江戸の歴史を知ることで今の東京の理解につながる点がたくさんありました。まさに時空因縁のコネクティングドッツです。
丸の内のオフィス街や霞ヶ関・永田町と大名屋敷、
皇居と江戸城、
現代の上野と寛永寺そして上野戦争。
それらの認識をつなぐ鍵となったのはフィールドワークによる現地・現物・現人との出会いでした。そしてミッションを意識して3つのアンテナをいつもグルグルと動かしてきたキッズたちのプレイフルネスとレジリエンスです。
プレゼンテーションの当日、自分たちが紡いだ物語を各自用意したスライドと共にしっかりと語ってくれました。
YI
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(参考) TCSテーマ学習について、以下よりご覧ください。
・2022年度 年間プログラム(PDF)運用版
・テーマ学習一覧表(実施内容)