タイトル:Dear Editor
探究領域:意思表現
セントラルアイディア:「編集によって情報の価値は変わる。」
[5年生]
冬休みまでにほぼみんなの作品が集まり、データとしての打ち込みも終わり、いよいよ「作品」を本格的に磨いてゆきます。
共同編集作業を行う時に、ITは強い武器です。ドライブに共有されている「文章データ」をプロジェクターでホワイトボードに映し出し、みんなでどうしたらもっとよい作品になるか考え、修正します。
「誰が何をしようとしているのかわからないよね」
下級生の作文でいちばん多い修正点は、情報が足りないということです。だれがやったのか、いつのことなのか、どこで起きたのか、いわゆる5W1Hが欠けているのです。
「やっぱり肉づけが難しいよな……」
細かい部分を補って直していっても、結局、できるのは「骨」の部分だけ。どんなお話にしたいかはわかるのだけれど、それを「説明」しているだけになっています。直接「説明」するのではなく、主人公が巻き込まれる事件や出来事の進展によって表現しないといけないのですがそれができない。
「となりの国の王女は半分きづいていましたが、この国にやってきて二人は仲よくなり、お父さんを説得することにしました」
「そうしたいのはわかるよねえ。でもさあこう書いちゃったらだめだよね」
せっかく骨=プロットはできているのに、肉=情景・心情・セリフによって物語にしていない……なんてもったいないのでしょう。
「でもさあ、ぼくたちもこんな作品ばかり書いていたよねえ」
下級生が乗り越えられない「壁」は、去年、自分たちが乗り越えられなかった「壁」。書けない子の気持ちに共感しつつ、だからこそ、どうしたらよくなるかはっきり認識して直してゆくことができます。
みんなで文章全体を解読し、まず骨=プロットとストーリーの流れを整理します。こうして骨の部分をしっかり明らかにしたら、今度は「個人」作業に入ります。各自で「肉づけ」をしてみるのです。
実は、指導する側から言わせてもらえれば、文集をつくることなどどうでもいい!のです。どうでもいい!というのは「結果」に過ぎないという意味。大事なのは「成果物」以上に編集の「プロセス」を体感し、ワザに習熟してゆくことです。
「ここで主人公が自然に気づかないといけないなあ……」
「ここがいきなりなんだよね。どうしたら不自然じゃなくなるんだろう」
子どもたちのこのつぶやきが出てきたらしめたもの。結局、編集とは、読み手が「自然な流れ」、つまり「ああ、そういうことならわかるよね」というストーリーラインになるようにすることなのです。「えっ!ここでそんなことが」とか「大どんでんがえし」というのも、それ無理じゃねえ……と思われるようなものは「自然」ではない。「そうか、やられた!」と思わせる工夫が必要です。
下級生の不完全な文章を利用して、どう改善してゆくか考えるプロセスが、どう文章を書いたらよいかというスキルとマインドを磨いてゆくことになるから面白いですね。
このプロセスを通じて、子どもたちには「編集虎の巻」を手にしてゆきます。それは大きく2つの内容に分かれていて、ひとつは「なおす」ときのポイント、そしてもうひとつは「つくりかえる」ときのポイントです。
文章を編集は、誤字脱字を直し、不要な部分を削ること。特に目立つのは「丘を登っていったら丘の頂上に着いて、丘から遠くを眺めました」というように同じ言葉を何度もダブって使ってしまうこと。「そして」や「すると」といったつなぎことばの多様も目立ちます。これを直すだけでずいぶんよくなります。次に、順番を入れかえること。事件の起きる順序が逆になっているのに気づかずに書いているケースを直したり、最初からネタバレになっているような書き方を改めます。
しかし、「なおす」だけでは不十分。プロットだけ、骨だけになっている作品にうまく肉づけして「つくりかえる」のです。ここがいちばんの力の見せどころ。書き手の思いを考えず、ただ自分の書きたいように直すのでは「編集者のエゴ」であり、もはや「編集者」ではなく、自分が「著者」になっています。そうではなくて、きっと書き手はこう書きたかったに違いない!と想像して肉づけに徹するのです。
こんなエピソードをつけ加えるともっと面白くなる……終わり方が唐突だからもっと自然にしよう……情景・心情・セリフのバランスをとろう……といったことを頭において、個人編集作業に没頭しています。
時間のかかる作業。毎日のように必死に残業していますが、なかなか作品が出来上がりません。残りはあっという間に2週間になってしまいました。いつもながら時間が過ぎるのは早いなあ!
RI
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