タイトル:個の尊厳
探究領域:自主自律
セントラルアイディア: 私たちは私たちのために生きている
[5・6年生]
今週は、2つの映画を見ました。1つは、人工知能と人間とが烈しい恋に落ちる『HER』。もう1つは、難病で余命いくばくもない恩師が教え子に対し遺した、命・愛・志についての最後の授業を描いた『モリー先生の火曜日』でした。
『モリー先生の火曜日』は、死について考えることが生を考えることになるというメッセージを直接的に伝えています。その関わりは師弟愛そのもの。日に日に病状が悪化し、弱ってゆく姿をさらしながら、生きることの意味、愛の意味を伝えてゆきます。
死は不可避なことであり、受け入れるしかない。死んでもきずなは残る。むしろこの別れを通じてお互い大きな学びを得るのだとモリー先生は言います。確かにそうなのだろうと教え子ミッチは理解しようとするものの……
「先生は、愛が必ず勝利すると言ったけれど、どうしてこれほど先生を愛しているのに別れないといけないのですか」
と感極まってしまいます。もちろんこのやりとりに答えは出ません。モリー先生は、もし私がこの世からいなくなったら、今度は私の墓にやってきて君が語れ。私はただ聴き続けるからと言うだけでした。
一方、『HER』は、人間との交流に疲れ、愛を知らず、生きる意味を見失った主人公・セオドアが、高度に発達した人工知能を手に入れるところから話が始まります。最初はゲームを楽しむつもりで人工知能・サマンサと交流しますが、自分のことを深く思ってくれて、賢く、優しいサマンサにはまってゆきます。サマンサもセオドアとのやりとりを通じて学習し、成長してゆき、セオドアに惹かれてゆく……こうして二人は烈しく恋する間柄になってしまいました。
しかし、二人の間に立ちはだかった障壁は「肉体」でした。キスしたり、お互いの体を感じたり、性的に興奮し、肉体的に交わることを求めても、それは無理なこと。二人は、結果的に肉体を超えたプラトニックな愛に目覚め、話は平和に終わると思いきや、貪欲に学び続けるサマンサはやがてセオドアの知性をあっという間に凌駕します。ついにサマンサは、プラトニックラブどころか、完全に具体性を超えた抽象の世界、ことばのやりとりすら必要としない領域へと突入してゆきます。こうしてサマンサはセオドアの元を去っていきました。
どちらも深く、すぐに理解できるような内容ではありません。しかし、子どもたちはずっと食いついて見続けていました。どちらの話も、彼らの将来に大きく関わる問題だということを本能的に気づいているからでしょう。
「人工知能も人間も心に違いはないよね」
「見分けられないと思う」
「でも、モリー先生の方に愛を感じるんだよね」
「HERの方は感情がない気がする」
彼らの気づきの中で大きかったのは、もはや人間の「知性」が機械より優位だとは言えない。むしろ、人間よりも優れたパフォーマンスで活躍するだろう。そのとき私たち人の存在意義が問われるということです。
「人はいやなことをいったり、間違ったり、傷つけたりするけど、人工知能の方が自分に合わせてくれるから、リアルな人とつきあう気がなくなっちゃうかもな」
「みんながそんなふうに思ったら、人と人が関わることなくなっちゃうよね」
人工知能は、時間の限界もなく、疲労したり、飽きたりすることなく学習し続けることができる。しかし、私たちは、時間の面も、体力の面も、さまざまな限界がある。不完全に満ちているヒトと完全を目指せる人工知能との共存する世界。いったい両者はどんなふうに関わり、また、ヒトはどうなってゆくのか。「個」としての特徴を生かして、私たちのために生きてゆくことなどできるのか。私を捨てて私たちのために働き続けることができるのは人工知能ではないのか。でも『HER』で描かれたように人工知能が「意志」というものを持ったとき、私たち人間のような生物の世界にはとどまらず、勝手に世界を築きあげてゆくのではないか……
こんなことを小学生とともに哲学することができる。いや、私たち大人が経験しない未曾有の世の中を歩む小学生こそ、考えなければならないことでしょう。
「生きる意味って何?やりたいことをやる、楽しければいい、そんな理由で生きることにどんな意味があるの?個人として生きることなんか自然や地球の側から見れば迷惑なだけかもよ……
「知性」「心」「意志」の本質を人工知能の進化は私たちに突きつけている。このことをしっかり考えることなしに25年後の世の中など描けません。限られた「命」の中で「生きる意味」について、ぐらぐら揺さぶられた一週間になりました。
RI
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