特定非営利活動法人 東京コミュニティスクール

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responsibility を考える

[6年生]

「セントラルアイデア」が固まり、「キーコンセプト」で分解してゆくことで本質に迫る問いが生まれ、あとは淡々とリサーチを進めてゆくだけ。

「神と神は共存できないが、人と人とは共存できる」という「セントラルアイデア」を立てた子は、その解決策として「神道の神様の大らかさ」がカギを握ると考えました。「キーコンセプト」にしたがって考えを進めてゆくと、causation ……つまり、どうして神道の大らかさが人と人との共存に有効なのかという問いが立ちました。

一神教どうしはぶつかり合いが起きるのに、そもそも多神教である神道は、いろいろな神が両立するのが当たり前。ひとつの神を絶対視しないという特徴が明らかになります。

「教祖も教義もないところがいいのかな……」

causation という「キーコンセプト」から発した問いが、自ずと change という「キーコンセプト」での問いへと発展してゆきます。確かに、キリストやムハンマドのような絶対的存在は出てきませんし、聖書やクルアーンのような「バイブル」もありません。オオクニヌシやアマテラスは、一神教の中に出てくる殉教者としてのシリアスなイメージや予言者として崇めたてまつる関係とはあまり結びつきません。神聖でないとは言いませんが、なんとなく温かみがあり、主従関係として契約するという感じにはならないのです。

「自然と神々とが密接につながってるんだと思うんだよね」

なぜ神道は大らかなのか?という causation に思いをはせると、神対人ではなく、人を取り巻く自然を象徴する神という関係が見えてきました。人間味あふれるさまざまな神が、自然環境に恵みをもたらす存在として出てきます。その種類の多さはまるでキャラクターのよう。ポケモンやクマモンなど、世界に知れ渡るキャラクターを生み出した日本人のソフトパワーの源泉は、もしかしたら「多神教」を受け入れる国民性にあったのではないかというところまで「妄想」は広がってゆきます。翻って一神教の生まれた場所の自然環境を考えてみると、砂漠の広がる厳しいものです。生き物を焼き殺さんばかりに厳しく照りつける太陽に、アマテラスのような慈愛の女神のイメージを重ねることは難しいでしょう。「キーコンセプト」 connection = 自然環境と神のイメージとの関係は?という問いが見えてきました。

まずは「キーコンセプト」を仲立ちに「妄想」を抱くこと。そうすると、「妄想」の信憑性を裏づけるために「リサーチ」しよう!となります。ただやみくもに「調べる」のではなく、自分なりの考えに基づいて「調べる」。同じ「調べる」行為でも、前者と後者とは雲泥の差です。はじめに「仮説」ありきという状態で「調べる」のが探究の第一歩です。

さあ、こうしたリサーチによって「探究」は動き出したものの、やはり「調べる」だけでは深まってゆきません。一神教の神と多神教の神の違いや、なぜこのような違いが生まれたかは「調べる」ことで明らかになりますが、では、こういった違いを乗り越えて、宗教争いを脱却するために、多神教の大らかさをどう活用するか。これは、まさにオリジナルな考えゆえに、調べて答えが出てくるものではありません。多神教の発想をどう一神教を信じる人々どうしの共存のために活かすか。そのために多神教の下で育った私たちはどう行動すべきか。「キーコンセプト」 responsibility に基づいて考えなければなりません。

「難しいなあ……」

ここまで順調に「調べ学習」を続けて来ましたが、大きな壁にぶつかりました。絶対的なものの見方をする人たちに、相対的に見ればいいじゃんと伝えるだけで考えを変えてくれるなら苦労はしません。それぞれの神の素晴らしさを尊重することと人と人との交流とを別のものとして考えられるよういかに導くか……なんとも難しい問いです。この問いに正解があるなら、とっくにパレスチナ問題は解決していますものね。政治家や学者のように考えるのではなく、素人ゆえの面白い発想がきっとあるはず。そんなふうに頭をぐるぐるさせるのが「探究」です。最後の最後まであきらめずに考え抜くことができるか。エキシビションの正念場です。

RI

TCS2013年度探究テーマ一覧は、こちらよりご覧ください。

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