タイトル:Dear Editor
探究領域:意思表現
セントラルアイディア:「編集によって情報の価値は変わる。」
[5年生]
「ここのところ意味がいまひとつ通らないんだよなあ」
「どれどれ、本当だねえ。きっとこういうこと言いたいんじゃないかな」
「なるほど、そうかもね」
冬休みの間にデジタル化してきた後輩たちの「作品」をお互いに見せ合って、どんなふうに編集したか自然にシェアし始めました。
自分だったらこう書くな……でもそうしたらぼくが書いたことになっちゃう……どうしたらその子のアイデアとからしさを残して編集できるか……悩みます。この悩みが「編集」のワザを高めてゆく原動力になります。
これまで、なんとなく書きたいように書いてきた。でも、他者の作文のときにはそうはいかない。さらに、ただ「直せば」いいんじゃない。まだうまく表現できていないだけであって、後輩達の心の中にある種にアクセスして、それを表に出さないといけない。そうでないと「編集」じゃない。
そこで、編集中の文章を「作者」に見せて、インタビューして、さらに磨いてゆくことにします。
このフェイズが、実は、このテーマ学習のクライマックスと言えます。というのは、編集する側も編集される側も、いちばん成長するフェイズだからです。
写真を見てもらえばわかるように、後輩たちは、先輩たちが自分の作品をさらに磨いてくれたことが素直にうれしくてたまりません。だって、ただ「ここまちがってるぞ!」って直しただけじゃないんですもん。えっ、こんなふうに面白くしてくれたの!って感じてしまう手の入れ方をしているんだから。ぼく or わたしこんなこと書こうとしてたんだ!スゴイ!という自己効力感を自ずと呼びおこされ、一方で、こういうふうに書けばいいんだと知った感動にしびれてるんだなあ。
この後、アドバイスされた後輩たちは、次に「書く」学びのとき「書き方」を変えてしまうんですから、その影響力というか伝染力には恐れ入ります。先生がどんなに熱心に赤ペンを入れて添削しても、その思いが受け手に伝わらなければ、徒労に終わってしまいます。しかし、そうか、こうすればいいんだ!と理解したり、なんとかこうしたいな!という願望が芽生えれば、学んで変わっていこうスイッチが一瞬のうちに入ってしまいます。
そして、編集する側は、面白くするために、文章構成と文章表現をどう変えてゆくか強く意識するようになり、これまでは見過ごしていたり(何度指摘されても変えられなかった悪いクセ)したことに注意が向くようになっているのです。
「同じような言葉がダブっているよね。こっちはいらないな」
「ここは『が』じゃなくて『に』でしょ」
「だれがやったのかあいまいだな。ちゃんとそれを書かないと」
「いきなり事件が次の展開に移っちゃってるよ。つなぐ事件を入れないとストーリーが流れないな」
なんかいっぱしの口をきくようになっているじゃないですか。
しかし、まだまだ「個」で編集できる力は限られています。そこでいよいよ全員で編集会議を開いて、もっともっと磨いていきます。もちろんおっちゃんもガンガン介入します。編集の「師」としての本気の姿勢を見せつけます。
「これただ打ち込んだだけでしょ。もっとこの子のよさを引き出すためにあれこれ考えた?」
「う〜ん、ここ面白くないよねえ、もっとしゃれた表現はないかな」
「この部分、あまり直し過ぎちゃうと、あたりまえになっちゃってらしさが消えるな」
どんどん「挑発」します。もちろん、こういう厳しい指摘ができるのも、彼らがそれなりの「編集」のコツを会得しつつあるからです。いけてるなあと思う自身が芽生えてきているときだからこそ、レベルアップのための指摘をぐいぐいしてゆかなければなりませんし、それを彼らも意気に受け止めて、どんどん食いついてくるのです。
ひとつずつ手を入れてゆき、まあこれは出版できるかなという状態のものができあがっていきます。
どうです。編集した者と編集された者どうしの充実感が表れているでしょう。さあて、ここからが胸突き八丁。頂上が近づけば近づくほど勾配が急になる登山のようなプロセスが「編集」です。これでいいや!ではなくまだまだ!というねばりで、「価値」を高めてゆきます。
RI
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