タイトル:Dear Editor
探究領域:意思表現
セントラルアイデア:「編集によって情報の価値は変わる。」
[5・6年生]
すべての原稿をパソコンに打ち込みましたが、ここまでも一苦労。低学年の子が書きなぐった文は何が書いてあるのか判読するのが大変。とはいえ、5・6年生もいつかは通った道。「、」「。」ないのは当たり前。「ぼくは」を「ぼくわ」なんていうのはかわいい方。ひらがなが読み取れません。まるで古文書?
「ああ、これ『変わっていった』って書いてあるんだ!」
同じことばや内容がぐるぐると繰り返される部分を削り、シンプルにしてようやく形が見えてきた第1稿。これをもとに、さらに面白くするために手を加える第2稿に着手します。
「これ結末が完全にないね」
「せっかく途中までの展開が面白いのにもったいないよな」
原石はごろごろしているのだが、まったく磨かれていない。素材は悪くないのに、調理の仕方をまったく考えていない。そんな状態なのが子どもの文章です。ただ、それを文法的に、あるいは文章構成的に修正すれば解決かというとそう簡単にはいきません。大人の添削ではなく、子どもの手による修正だからこそ生まれる価値は何か……。
「インタビューしても、書いた本人がわからないこともあったよ。でもね、一緒に話してゆくうちに、いろいろ生まれてきたんだよ」
なるほど。それは面白い。ソクラテスの「産婆術」じゃないが、一人で産めないものを、他者のサポートによって産み出すということですね。先生や親などの大人だと構えてしまったり、子どもならではの感性をなかなか理解できなかったりするけれど、ちょっと先輩の子どもたちに、いろいろ自分の作品について聞いてもらえるのは、下級生としては純粋に嬉しい様子です。知識や技術だけではない、ともに無理なく寄り添いあうからこそ産まれる創造行為を目の当たりにしました。これは間違いなく、子どもが子どもの作品を編集することで生じる価値です。
はちゃめちゃな冒険を書いた作品は、はちゃめちゃさを残しつつ、基本はシンプルに「削る」ことが編集作業の中心になります。そのうえで、後輩達が表現したかったものの表現しきれなかった世界を、なり代わって文章化することも積極的に行いました。書き上がるともちろん、作者である下級生のところに出向き、「これでどう?」とたずねます。すると不思議。「こんなんじゃない!」と不服を言うことなく、自分が語ったことをここまで形にしてくれたんだととてもうれしそうな顔になりました。その顔を見て、手を加えた先輩も、努力の甲斐があった!と充実感にあふれた表情になります。
相互に影響しあって力をつけてゆくというサイクルが見事にまわり始めました。編集する側にとっては、不完全でどうしようもない文を、そこに含まれたわずかな光を殺すことなく、育てあげてゆくプロセスで、言語力を高めてゆきます。編集される側は、自分に欠けていた語彙・表現方法・展開の仕方などを強烈な印象とともに学びます。
「そうか、こう表現すればいいんだな!」
意識をゆさぶられ、深く理解する学びが進んでいます。大人がどんなに赤ペンで子どもの作文を添削しようと、これほどの実感を得ての学びを実現することは難しいでしょう。
とはいえ、これはとても時間と手間のかかる作業です。毎日、6時過ぎまで残業です。与えられたタスクだからやっているという「ひとごと感」「やらされ感」は微塵も見られません。パソコンに向かって、ときにうなりながら、ときに友達にアドバイスを求めながら、ほぼ黙々と作業に没入しています。なんというやる気でしょう。
「だってさあ、いい本つくりたいじゃない」
まったくその通り。粋じゃありませんか。みんなが喜ぶ、面白がってくれる本をつくりたい。それも自分たちだからこそ表現できるものを示したい。そんな気持ちに動かされているのですから、主体的になるわけですね。スバラシイねえ。
でも、24人分の原稿を3人で分担して手を入れ、本のレイアウトをつくりあげて、あと1週間で印刷直前のゲラまで持っていくのは大変なことだ。時間はいくらあっても足りません。しかし、疲れを見せることなく、淡々と取り組んでゆく子どもたち。なんて頼もしいのだ。完成が本当に楽しみになってきました。
RI
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