「人の気持ちを理解できる弁護士になりたい」小学校の卒業文集に書いた私の夢です。大切な人に理解して貰えなかった経験から生まれた、私の中の根っことなる気持ちです。ただ、この夢が中学校卒業時には「アーティスト」に変わることになる。その人生の分岐点となったきっかけは、密やかで激しい揺らぎでした。
中1の時、学級委員だった私は教壇に立ち文化祭について話をしていました。向かって左手側、前から4列目の席に座っていたTは、40人の中の1人として、ただ自分の席に座っていた。でも、みんなの前で何かをそれらしく話している私なんかよりも、茶色い重めの前髪の間から世界を見ている彼女の方がずっと信頼できるような、そういうものが彼女にはあった。そして察したのです。私には見えていない世界がある。ここにいては見えない世界がある。分かりたい。その瞬間、とぷん、と世界の裏っかわに潜ったような、そんな感覚をくっきりと覚えています。深い深い海でした。広く厳しく面白い世界でした。
3歳から音楽を始め、絵本や小説も大好きだった私には、音楽も美術も文学も全てが分かち難く支え合って存在し、それぞれがそれぞれの言い換えだったり、部分的には溶け合っていたりするような感覚が幼い頃からありました。そして、実は学問もほとんど変わりなく、全ては美しさという点で私の中ではくっついている。
なんてことを考えていた中3の冬、仲の良かった美術の先生に「お前、旭美(出身校の俗称)行けば?」と言われ、カルトンを抱えてデッサンを始めました。元々答えの決まっていることにはあまり興味が持てない性分でしたし、正解のない表現の世界にこそ自分の時間を費やす価値がある、という直感に従い、後戻りはできない自覚もなく芸術の道を選びました。
そして、1学年普通科9クラスに美術科が1クラスという編成の公立高校に進学しました。すごい学校だった。すごい時間だった。何があって何がなかったのか、今こそ深ーく考えているわけですが、本当の自由があったことは確か。教師と生徒間には尊重があり、そこは寛容性に満ちていた。何かを押し付けられた覚えはなく、自主自律に終始して、本質的で上質な自由を謳歌した3年間でした。
根底に揺るぎない信頼があり、場に対して、他者に対して、自分に対して、自分の将来に対して、自分と自分の力と世界への信頼感を全身に浴び続けるような時間でした。あなたの人生は信頼に値する、と。
勿論それから紆余曲折あり、1人娘の子育ても終わりに近づいてきた2025年、とらべのオープンに関わるご縁をいただきました。仕事や子育てをしながらも、芸術のみならず、学問という美しさからも逃れられなかった私は、現在も人間性心理学やコミュニケーション学を中心に学び続けています。
様々な貴重な経験や学びから受け取ってきた素晴らしい心震わすものーー総称でいうと「愛」を、私を通して誰かに届けられたらいいなぁ、それができたら最高だな。こどもたちと分かち合いながらどこまでも成長していきたいです。